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~モーリー・ロバートソンさん その人生と創造力Vol.1~
~モーリー・ロバートソンさん その人生と創造力~
モーリー・ロバートソンさん
N Yに生まれ、幼稚園まではサンフラシスコで育ち、のちに広島へ。東大、ハーバード大学を経て、現在は国際ジャーナリスト、コメンテーター、DJ、ミュージシャンと様々な分野で活躍。著書に「よくひとりぼっちだった」(文芸春秋)、『ハーバードマン』(文藝春秋)、『挑発的ニッポン革命論 煽動の時代を生き抜け』(集英社)、『悪くあれ!窒息ニッポン、自由に生きる思考法』(スモール出版)など。
毎回様々なジャンルからゲストを迎え、ざっくばらんに語り合うペッレ モルビダの談話企画。最終回となる今回のゲストは、モーリー・ロバートソンさんです。幼少期から激しい環境の変化に揺さぶられながら、その中でも自分のアイデンティを確立するために試行錯誤を繰り返し、東大、そしてハーバード大学へ。輝かしく見える経歴の裏には、波乱万丈の人生が隠れていました。そこには現代を生き抜くヒントがあるかもしれません。
インタビュアー
PELLE MORBIDA 営業 児玉浩一郎
PELLE MORBIDA 営業 加藤樹
加藤 モーリーさんはいつもどんなバッグを使っているんですか?
モーリー 私はいつでもどこでも仕事ができるように、なんでも持ち歩いてしまう方でね。世界中から資料を取り寄せるし、音楽も作るので、データの処理能力も高いほうがいい。だからどうしても二宮金次郎みたいになってしまうんですよ(笑)。いけませんね。
児玉 音楽も作るようでは、本格的なスペックが必要ですね。
モーリー ソフトのプラグインなんか、100万円分超えるくらい入っているんじゃないかな。ソフト自体に重さはないけど(笑)、業務用レベルだからデータは重い。なので、フルスペックのPCが必要です。
児玉 パソコン以外の書類や本も全部沢山持ち歩いているんですか?
モーリー 場合によります。本当は持ち歩きたくないけど、なんとなく積み重なっていくというか。だからどうしてもバッグはショルダータイプなってしまいます。ずっしり…(笑)。
加藤 主にリュックですか?
モーリー はい。ハンドルだと取っ手がちぎれるぐらい重いので!
“クォンタイズ”し続けた日々
加藤 モーリーさんの活動は本当に多岐に渡りますが、肩書きはなんになるのでしょうか?
モーリー もう何でも。七変化です。一応『国際ジャーナリスト』とか『DJ』とか『ミュージシャン』あたりを名乗ってるんですけど、元々はね、世の中のグリッドというか、二次元でも三次元でもはまらないとこにいるんです。「0か1かで答えろ!」って言われても「0.3」って平気で答える人っていうか。そうやって自分なりの存在感を示しているというか。
加藤 それは意識して? それとも気付いたらもうそういう性格だったのですか?
モーリー 音楽ソフト用語でいう『クォンタイズ』って知っていますか? 知らないですよね。詳しくはぜひ検索して調べてみて欲しいんですが、簡単にいうと、ずれたピッチを強制的にあわせてしまう処理のことを言うんです。子供の頃はそれを自分なりに繰り返していたっていう感じかな。
つまり、自分が日本人なのかアメリカ人なのか、よくわらかないところにいて、そのズレみたいなものを合わせる作業を繰り返していたということ。四捨五入で皆に理解できるペルソナっていうか、自分の仮面っていうか、こうすれば皆にわかってもらえるっていうことをし続けたんだけど、結局どれをやっても自分じゃないんですよね。存在感が多分強すぎて、ごまかそうとしてもすぐ剥げちゃう。貼ったはずのシールがすぐ剥がれて下にあるものが見えて、逆に違和感が倍増するっていうか。皆にわかるお面を被ってるんだけど、その向こうにある違う何かが見え隠れする。「えっ!?」みたいな(笑)。
児玉 ハーフという存在が環境的に珍しい時代だったのですね。
モーリー かっこいい言い逃れをするんだったら、私がアナログで世の中がデジタル。デジタルの世界ではカクカクの8段階とか16段階にしかグラデーションがなくて、私の中にある墨絵みたいなグラデーションが表現できないんですよ。だからとりあえず僕が合わせるしかないというかね。
加藤 それに気付いたのはいつぐらいですか?
モーリー 小学校は、最初は日本にあるアメリカ人向けの学校に通っていました。そこでは英語しか喋らない教育を受けてたんですけど、やっぱり日本語もちゃんと勉強したいっていうのが自分の中にあって、辞めて5年生から日本の小学校に行ったんですよ。その瞬間、あまりにも文化が違いすぎてワーってなりました(笑)。そこから1・2年かけて、顔は違うけど中身は完全に日本人っていうことに試みたんです。
それで中学受験をして、県内3番目の学校に合格し、なんとか自分を納めたんですよ。詰襟の制服にね。それで完全になりきったんだ!って思った瞬間、父の仕事の都合でアメリカへ戻ることに…。これがまた大変でしたね。あっちだと13歳とか14歳とかのこはもうデートして手を繋いで歩いてるんですよ。15歳でファーストキスなんて当たり前。社交が早いんです。私は日本式の礼儀正しい13歳でしたから、今度はそれに全然馴染めなくて…。チューニングが完全に狂ってしまうんですよね。
児玉 いきなりそこまで環境が変わってしまったら、それはそうですよね。
モーリー そう。せっかく日本人になったのに、またアメリカ人にならなければいけない。頑張って遅れてついていこうとして、モテようとして色々こうじゃないかって試してみるんだけど、それが全部裏目に出たりね。頑張ってやたら女の子に話しかけるんだけどモテないっていう、迷惑なタイプの奴ね(笑)。その時はだいぶ中途半端だったな〜。
モテない人のひとつのストラテジーっていうか戦略として、とにかくナンパしまくるっていうのがあるんですよ。100人声掛けると2人位はなんとかなるんで。アメリカに戻った時はすごく引っ込み思案だったのに、2年でベラベラ喋りまくる人になりましたよ。痛々しいぐらい(笑)。
まあ説明が長くなるのでちょっと省きますけど、アメリカの学校に教職員ストライキっていうのがあったんですよ。日本ではほぼないですよね。住民投票で固定資産税に対して減税をする代わりに、公務員の、特に教員の給料をカットして財源に回して…っていう法案が住民の直接投票で決まってしまった。それでストが起きたんですね。いわゆる労働争議が学校で起きたんです。普通日本ではないですよね。それで学校が麻痺して学校に先生が来なくなっちゃったんで、結局また日本に戻ったんです。それまでの2年間、アメリカで培ったこのスキル、どうすりゃいいの!?って感じで(笑)。当時は高校生。ほとんどの男子が恥ずかしくて女の子に声なんか掛けない中、やたら私が声をかけまくる。まるで琵琶湖にブラックバスを放ったみたいな状態(笑)。
児玉 モテたんですね、戻ってきた時は(笑)。
モーリー モテましたね(笑)。あとね、やっぱり勉強のやり方が全然違くて、そのギャップもありました。アメリカだと先生と議論をして、質問を通して理解するというのに対し、日本はとにかく詰め込む。すごい難しいことを反復的にやって覚えるってやつですよね。その勉強の仕方についていけない&反発しはじめて(笑)。「こんなのは勉強じゃないじゃないですか!」みたいなね。生意気に言い返す。それもアメリカ式。
加藤 それは何年前ですか?
モーリー 高校2年かな。40年近く前ですね。
児玉 やはり遅れてますね…というか、いまだに日本の教育の仕方は同じじゃないですかね。
モーリー 遅れているっていうかね、もちろん日本には変わらぬ良さがあります。私はわざわざ行って違うものを持って帰ってきちゃっただけ。昭和50年代の日本では、それは不良ってことになりますよね。学校の風紀を乱していると。そりゃそうですよ。アメリカの高校生は毎週金曜日に学校のキャンパスにバンドを呼んで、皆でディスコ踊るんですから。ミラーボールぶら下げて。それでその場で社交してください、ペアを作ってくださいっていう感じ。すごいシステムでしょ。日本の学校ではそんなの絶対にないから、「どこで踊れるの?」って普通に知り合いに聞いて、ディスコだって言うので何人かと友達と皆で行くような私は立派な不良。学校が知って大問題になりました。
~モーリー・ロバートソンさん その人生と創造力Vol.2へ続く~